2018年12月1日土曜日

名匠が選んだ「本当にぞっとする話」。三津田信三編『怪異十三』


今晩は、ミニキャッパー周平です。今週も先週に引き続きホラーアンソロジーを。前回ご紹介した『だから見るなといったのに』に収録されていたのは全て二〇一四年以降発表の作品でしたが、こちらは一八八一年発表作から二〇一三年発表作までと射程範囲の広い収録作となっています。

という訳で本日の一冊は、三津田信三編『怪異十三』。
国内編7作品、海外編6作品。プラス番外編1編。編者が「ぞっとした作品」かつ「現在では埋もれている作品」を中心に、古典を多く集めた結果、マニア垂涎のラインナップとなったアンソロジーです。



まずは国内編から。私がぞっとしたものを挙げますと「竈(かまど)の中の顔」(田中貢太郎)、「蟇(ひき)」(宇江敏勝)、「茂助に関わる談合」(菊地秀行)の3作。
「竈(かまど)の中の顔」は、碁を通じて僧と知り合った男の話。男は、僧が住んでいるという庵に訪れたが、そこで見たものは……絵的な怖さと、間違いなく邪悪な何かが介在しているのに因果因縁が理解できない不条理さが沁みる一編です。
「蟇(ひき)」は山中に住み炭焼きをして生活している男の体験。本文僅か3ページの掌編小説ですが、瞬間的なインパクトは本書中随一。気づけば戦慄を求めて何度も読み返してしまいます。
「茂助に関わる談合」では、武士である叔父のもとに甥が深夜に訪れる。甥は、叔父から送られた奉公人・茂助について「人間ではない」と訴えるのだった。一幕劇で、肝心な情報が幾つも伏せられたまま緊張感が高まり、事態は思わぬ方向に転がっていく。怖がらせるための技巧が冴えわたる作品です。

「死神」(南部修太郎)は、もと車引きの男が、借金と家族を抱えて困窮し、自死に絡めとられていくストーリー。「妖異編二 寺町の竹藪」(岡本綺堂)は、友人たちに別れを告げて竹藪へ向かい、姿を消した少女の神隠し談。「逗子物語」(橘外男)は、山奥の墓場で見かけた、墓参りらしき三人組の素性についての話。「佐門谷」(丘美丈二郎)は、かつて父娘が不審死を遂げ、数日前にも男女が落ちて亡くなったという危険な谷を、夜に越えなければならなくなった男の体験。それぞれの作品で、ここが「魅せ」の場面、読者の心胆を寒からしめようとした箇所だというのが明確で、編者の眼鏡に適ったのも納得の内容です。

 海外編で最も私の背筋を寒くさせたのは、傑作短編「炎天」でもおなじみのウィリアム・フライヤー・ハーヴィーが書いた「旅行時計」。家に旅行用の携帯時計(たぶん懐中時計のようなもの)を忘れたので取ってきてほしい、と頼まれた女性の話。小さなアイテム、さりげない謎から「あり得そうなのに得体の知れない怖さ」が浮かび上がる一本。私が「ぞっとした作品」は短いものばかりになっているのですが、情報の少なさが想像を掻き立て、無限に嫌な連想をさせるということなのかもしれません。
「アメリカからきた紳士」(マイクル・アレン)は、賭けのため、幽霊が出るという噂の屋敷に一晩泊まることになった男の話。屋敷のベッドの傍には怪談本が置いてあるのですが、その本に書かれた(つまりは作中作である)姉妹二人の恐怖譚も映像的で強く目に焼き付きます。

「ねじけジャネット」(ロバート・ルイス・スティーヴンスン)は、村で魔女扱いされている女を雇った牧師の体験。「笛吹かば現れん」(モンタギュウ・ロウズ・ジェイムズ)は、浜辺の遺跡で見つけた笛を吹いたことで、形のない何かを呼び寄せてしまう物語。「八番目の明かり」(ロイ・ヴィガース)は、一日の終わりに、地下鉄の電気を消灯して回らなければならない鉄道員の怪談。「魅入られて」(イーディス・ウォートン)は、「夫が、死んだはずの女と逢瀬を重ねている」と訴える妻の話。国内編の作品と読み比べると、海外編の方が(超自然要素を前提としていても)理性的に読み解けそうな作品が多い印象があります。

巻末には番外編として、編者・三津田信三の短編「霧屍胆村(きりしたんむら)の悪魔」も収録。隠れキリシタンの村に調査のため訪れた女性が、教会で見た光景にはどこか違和感があり……。細かな伏線を張り巡らせ次々回収する、作者の手腕は短編でも発揮されています。

本書には編者による丁寧な作品解説がついていますが、その中で、「理想の読書体験」として、その作品がどういったジャンルのものなのか(ホラーのように超自然的な作品か、ミステリのように合理的な作品か)知らずに読むことだと言及されています。収録作の中には、完全に合理的な説明がなされて成程と膝を打たされる、つまりは「ミステリ」として優れたものもありますが、どれがそれなのか、何本入っているのかは(編者の意向も汲んで)読んでのお楽しみということで。